半袖が着れない理由

わたしは夏でも基本長袖を着ています。ちょっと出掛けるくらいだと、半袖のままですが、お出掛けになると絶対長袖の上着を着てます。

なぜかと言うと、自傷行為をしているからです。わたしの自傷歴は長い方だと思います。このあとの記事は気になる方だけお読みください。めちゃくちゃ長いです。

 

小学生のときに、自傷行為というものを知りました。そのときに、何となく自分を傷付けたいという気持ちになりました。思い返せば、保育園生のときに、姉の彫刻刀で指を切ってました。その傷は今は見えないんですけど、祖母に怒られたことを覚えてます。

話を戻しますが、小学生のときは怖くてカッターでちょっと傷付ける程度でした。多分注目を浴びたかったんでしょうね。特に病気だったわけじゃないです。でもやっぱり痛かった記憶があります。

そのまま中学生になり、部活のストレスなのでみみず腫れ程度の傷を作ってました。厨二病も入ってました。今考えると恥ずかしいです。ですが、左腕に少し傷が残ってました。その後高校に入学しました。

高校のとき、初めていじめに遭いました。クラス全員から無視される、椅子を隠されるなど。その辺りから過呼吸が出るようになりました。部活終わりに過呼吸が出たり、授業中勝手に出たりなど。ひどいときは、学校に着いた瞬間過呼吸になり、担架で運ばれるのもしょっちゅうでした。一年生の冬ぐらいだったのですが、担任に「単位が危ない」と言われ、初めて精神科に行きました。そのときは何て診断されたか忘れましたが、診断書を出し、何とか進級しました。

二年生になり、いじめの主犯格と同じ学科だったのですが、クラスは違いました。最初はストレスで過呼吸を起こしてましたが、慣れて普通に高校生活を送れました。ですが、ストレスの発散方法がわからず、また自傷をしてました。そのときも確かカッターだったと思います。傷が気になり、担任に相談し、夏でも長袖の制服を着てました。三者面談のとき、担任が母にその話をし、初めて家族に自傷行為をしているのがバレました。そのあとはあんまり覚えてないです。ただ、他人に「この傷は見られたくない」という気持ちはありました。

そして三年生へ。いじめの主犯格と同じクラスになり、そこからわたしの地獄の日々が始まりました。みんなわたしを待ってくれているのに、学校に行けない。行けたとしても、過呼吸を起こす。電車から降りたら倒れる。そんな日々がしょっちゅうでした。それにプラスみんなが待ってるというプレッシャー。わたしには荷が重すぎました。教室に入ることができなかったので、保健室や学年主任の部屋でテストを受けたり自習をしてました。あと人生初の補修も受けました。学年主任めちゃくちゃ怖かったです。落とした科目ごとに先生にハンコを貰うのですが、基本わたしが何故学校に来れないか知ってる先生だったので、そこは怒られなかったです。科学の先生だけ、理由を聞いてきました。話してる内に涙が止まらなく、軽く過呼吸起こしてました。

夏くらいに修学旅行も行きました。修学旅行も友達のわがままさが辛くて泣いてました。帰りの新幹線に乗るぞ!というところで過呼吸を起こし、指導部の先生におんぶしてもらってました。基本過呼吸を起こしてるとき、意識が飛ぶのですが、おんぶしてた先生がわたしから手を離した瞬間、背中から落ちたのは覚えてます。

修学旅行後も、もちろん学校には行ってなかったです。部活も二年の途中で辞めてました。たまたま母と買い物へ行ってる最中に担任から電話がかかってきて、「進級できない」と言われました。目の前が真っ暗になり、絶望しました。母に伝えたら怒られるか心配でしたが、きちんと母に言い、転校しました。転校先は通信校でした。うちの通信は行っても行かなくてもいい学校だったので、わたしは行かず、バイトだけ行ってました。わたしはどうしても就職をしたかったので、就活だけは頑張ってました。無事就職が決まり、レポートを提出して卒業しました。そのときは特に大きなストレスは無かったので、自傷行為はしてなかったと思います。覚えてない。

就職先は介護でした。介護は資格なしでも働けます。右も左も分からず、毎日泣いてました。リーダーに「仕事楽しい?」と毎日のように聞かれ「楽しいです!」と嘘をついてました。それこそストレスの発散方が分からず、自傷に走りました。そのときからカミソリで腕を傷付けてました。ですが、季節は夏。リストバンドで隠すのが精一杯でした。季節が秋になった瞬間長袖を着て、毎日自傷行為をしてました。この辺からもう誰が見ても「この人自傷行為してるんだな」という腕になってました。

就職して一年経ちました。そのときに相談員から「志水さん腕どうしたの?」と聞かれ、泣いてしまいました。ですが、初めて自傷について話せる相手が見つかりました。そして話した結果、長袖を着てもいいよ、と言われたので、インナーを着ながら仕事をしてました。なので腕は新しい傷がどんどん増えていきました。家族にバレないかだけが心配でした。

そして秋になりました。初めて職場で過呼吸を起こしました。救搬され、一週間仕事を休みました。そのとき、わたしは多分病気なんだな、と思い心療内科に再び通おうと思いました。ですが、どこも予約がいっぱい。そんな日々を過ごしていたら、あっという間に仕事に復帰する日になってました。主任や相談員に、病院に行けてないことを言うと、ひどく責められました。理解してくれてると思っていた相談員にも遠回しに「志水さんがまた過呼吸を起こすと職場に迷惑」と言われ、傷付きました。行きたいけど予約がいっぱいなんだからしょうがないじゃん、という気持ちでいっぱいでした。休憩中、泣きながら姉に相談したのも覚えてます。

なんやかんやで病院を見つけ、医師に相談したところ「統合失調症」と診断されました。また目の前が真っ暗になりました。この時は統失は治らない病気だと思っていたので、死ぬまでわたしはこの病気と付き合わなきゃいけないんだ、と泣いた記憶があります。その反動でめちゃくちゃ腕を傷付けました。もう縫わなきゃいけない程度まで深い傷もたくさんありましたが、全部放置し(ガーゼと包帯だけはしてた)自然に治るのを待ってました。もう傷付ける場所がないな、と思ったら右腕へ。右もなくなったな、と思ったら二の腕へ。その頃のわたしは痛みを感じなかったのか、深ければ深いほどストレスから逃れると思い、たくさんの傷をつくってました。これしかストレス発散方がないと決めつけ、自分を傷つけることをやめなかったです。

最初の職場は、二年半働いて辞めました。精神的に疲れるし遠いし(車で一時間半掛けて通ってた)統合失調症のせいで公共交通機関を使えなかったので、いい勉強になったな、と思い退職しました。

その後は一年くらいニートをしてました。仕事しなきゃなあ、と思ってたら一年経ってました。そして近くの電気屋で働き、携帯担当をしてました。その頃から記憶力の低下が酷く、医師に相談したところ、そちらも統合失調症の症状だと言われました。何度絶望したらいいんや。

携帯担当の上司はとても優しい方でした。今はもう異動してしまい居ませんが、すごく感謝してます。

でもやっぱり腕は汚いので、制服はずっと長袖でした。上司は理由を聞かなかったです。優しい。でも介護のときより暑かった。夏は汗だくで仕事をしてました。

病気の関係か分かりませんが、仕事を普通にこなすことが難しく、半年で退職しました。介護で働いてたときに言われた言葉がフラッシュバックし「わたしは普通の人間じゃない」と常に思ってました。生きづれ〜。そんな日々でした。

仕事を辞めてもなお、わたしは自傷行為をやめることはなかったです。なんなら深い傷がもっと増えた。

なぜこの記事を書こうと思ったかと言いますと、たまたま鏡で腕を見たときに「ひどい腕してんな。そりゃみんな腕に目いくわな」と思ったからです。決して同情してほしいからではないです。なのでこれから暑い時期にわたしに会う方、ビックリしないで欲しいです。こういう人生送ってたんだな〜程度に思っといてください。

 

すごい長文を書いてしまった。ここまで読んでくださった方はありがとうございます。わたしは病気と闘いながら、毎日を生きます。もちろんわたしより辛い人生を送ってる人もいます。「頑張って、頑張ろう」の言葉は嫌いなのでほどほどに生きていきましょう。自分のペースで大丈夫。理解してくれる人は必ずいますからね。